スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い エイズとその隠喩』

スーザン・ソンタグ(富山太佳夫訳)『隠喩としての病い エイズとその隠喩』(みすず書房、1992年)

隠喩としての病い

冒頭の二段落は、いま読んでも名文だと思う。

病気とは人生の夜の側面で、迷惑なものではあるけれども、市民たる者の義務のひとつである。この世に生まれた者は健康な人々の王国と病める人々の王国と、その両方の住民となる。人は誰しもよい方のパスポートだけを使いたいと願うが、早晩、少なくとも或る期間は、好ましからざる王国の住民として登録せざるを得なくなる者である。(中略)病気とは隠喩などではなく、従って病気に対処するには−−最も健康に病気になるには−−隠喩がらみの病気観を一掃すること、なるたけそれに抵抗することが最も正しい方法である

ソンタグ「隠喩としての病い」p. 5-6

と同時に、ソンタグがなぜ病気を「市民たる者の義務のひとつ」として捉えているのか、その理由がいまひとつ掴めない。また「最も健康に病気になる」という表現に対しても、ひっかかりをおぼえる。

要約

1(pp. 7-13):結核と癌はともに「手におえぬ気紛れな病気」「正体不明の病気」として神話化され、隠喩に飾り立てられてきた歴史を持つ。それらを非神話化することが重要だ。

2(p. 13- 28):似たようなもの(同じようなもの)として捉えられていた結核と癌は、19世紀後半の医学的な知の登場により、対比的(対極的)に捉えられ、語られるようになる。

3(pp. 29-38):結核と癌は、情熱と抑圧という二つの相矛盾するイメージをめぐり、神話化された。
*ジッドの『背徳者』が描く結核のイメージ(p. 31)

4(pp. 38-55):結核は、18世紀の半ばまでにはロマン化され、そのイメージは20世紀に治療法が確立するまで続く。その後、結核のいくつかの特徴は狂気に、別の特徴は癌に引き継がれた。
*ニーチェの著作と結核との関連(p. 46)、カフカの作品と結核との関連(p. 51)

5(pp. 55-65):近代以前の病気観では、病気は社会に対する審判であり、人間の最も醜いものと美しいものを引き出すと考えられた。近代以降の病気観では、社会よりも個人が審判の対象とされる。これにより、病気は「試験」であり、それにしくじってはならないという風潮が強まった。

6(pp. 65-76):病気が道徳的な罰としてではなく「内的自我の表出」として捉えらるようになっても、病気の責任は病人に押しつけられる。しかし、結核よりも癌の方が懲罰的なイメージが強い。「結核患者には無法者やはぐれ者になる途が残されていたが、癌にかかった人間は端的に、しかも恩着せがましく、人生の敗者とみなされる。」(pp. 75-76)

7(pp. 77-86):病気の原因を情緒(心理状態)に見出す理論がある。しかしこうした心理学的な理解は「病気の「現実性」を骨抜きに」(p. 84)する。「心理学的な病気説というのは、病める者を悪人にしたてるところの大なる方便でしかない。患者にしてみれば、知らないうちに病気の原因を作っていたのだと言われた上に、それは自業自得という気持ちにさせられてしまうのである。」(p. 86)

8(pp. 86-108):「結核は19世紀経済人(ホモ・エコノミクス)の負の活動、つまり消費、浪費、生命力の消耗といったイメージを利用して描かれる。(中略)癌は20世期経済人の負の活動である異常成長、エネルギー抑制、つまり消費拒否のイメージを利用して描かれる。」(p. 96)また、病気をめぐり「軍事的な比喩が広く使われ始めるのは、細菌が病因となりうることがつきとめられる1880年代に入ってからのこと」(p.99)

9(pp. 108-131):「ある現象を癌と名附けるのは、暴力の行使を誘うにも等しい。政治の議論に癌を持ちだすのは宿命論を助長し、「強硬」手段の採択を促すようなものである」(p. 125)。癌の隠喩は「複雑なものを単純化する傾向を必ず助長し」「自分は絶対に正しいとする思い込みを誘いだしてしまう」(p. 127)。

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