清水晶子「ようこそ、ゲイ・フレンドリーな街へ」(2015)

授業準備のため再読。

『現代思想』(2015年10月号)「特集 LGBT 日本と世界のリアル」所収。

清水晶子「「ちゃんと正しい方向にむかってる」−−クィア・ポリティクスの現在」(三浦玲一・早坂静編著『ジェンダーと「自由」−−理論、リベラリズム、クィア』彩流社、2013年、第14章) も併せて読むとよい。

要約

1.問いの提起

本稿における主となる問いは「どの場に、どの身体が、どのようなあり方で、その存在を許されるのか」である。と同時に、性的少数者とスペースとの関係性の変遷をたどることで、性質の異なる複数のマイノリティの横断と連帯の可能性を探っていく。

2.プライバシー・イン・パブリック

一般的に想像される「家庭」などのプライベートなスペースにおいて、性的少数者は異性愛規範的ヘゲモニーに抑圧されクローゼットを強いられる。だからこそ歴史的には彼らはパブリックスペースの中にプライベートで性的な空間を創造し、それを異性愛規範的ヘゲモニーから取り戻そうとする闘争を展開してきた。

3.ヘテロ・スペースのクィアな占領

90年代になると、空間は自然ではなく常に性化(異性愛化)されており、どのようにしてその空間に亀裂を入れ得るのかという問いが現れた。その中で性的少数者は自らと他者との差異を強調し、パブリック・スペースの中で自らを可視化する方向の運動を展開した。

3.エギゾチック・ゲイ・タウン 前述したような新しい運動は異性愛規範や異性愛スペースの変容には必ずしも繋がらないばかりか、新たな少数者のパブリック・スペースからの排除・抑圧を生み出し得る。合法化された性的少数者以外はパブリックスペースから排除され、そしてその差異は空間を問い直すものではなく単なる「1つの違い」に還元されてしまう。

4.スペースなき多様性 可視化の運動によって1つの差異を帯びた身体が空間に存在する権利を勝ち取った一方で、他の差異を(も)帯びた身体との共存可能性を失ってしまった。現代の日本でもそのような抑圧と排除が行われている。我々はいかにして(あるいはどこに)その異なる差異を持つ身体同士の連帯を実現できるのだろうか。

議論点

  • 日本において、米英での議論で登場した例(クィア空間の創造、異性愛スペースの撹乱、新たな周縁化や排除の問題)に相当するものは何か。
  • 渋谷区の例は包摂と排除を考える上で好例。なぜそのような包摂/排除が行われているのか、あるいは「性的少数者」内でも包摂/排除のポリティクスは作動していないのか、作動しているどしたらどのようなものか。
  • クィア・ネーションの手法の有効性について。文献に出てこないレインボーパレードやレインボープライドはどのような位置づけになるか。
  • 「連帯」が意味し得るものはどのような関係性か。またその手段とはどのようなものか。
  • 「単一抑圧の枠組み」に陥っている例として他に何があるか。

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