『クィア・スタディーズ 1−−アイデンティティ、コミュニティ、スペース』第3章(pp. 52-80)所収。
また、本章と併せて、中央大学×LLAN連続公開講座第1回「LGBTと人権 府中青年の家事件を振り返る」を視聴すると、内容理解の助けになってよい。
要旨:
1990年、東京都教育委員会は「青少年に悪影響を与える」という理由で、「動くゲイとレスビアンの会(アカー)」が府中青年の家という施設を利用することを拒否した。同団体は、都の決定は集会の自由と学習権の侵害にあたるとして、東京地方裁判所に損害賠償の訴えを起こし、第一審、第二審ともに勝訴した。これが、同性愛者の人権を争点とした日本初の訴訟として知られている「府中青年の家裁判」である。
アカーが東京都を相手取って裁判を起こしたことに対し、当時のゲイ・コミュニティには、「同性愛者の基本的人権の獲得」に向けた一歩と評価する声がある一方で、実は批判する声も少なくなかった。筆者はこの違いを、クローゼットの中で暮らすことを前提としている者と、カミングアウトすることで性や生を可視化し安全なものにしようとする者との間の意見の相違として捉える。
さらに、前者の立場から出た批判を、大きく二つに分けて紹介する。一つは、カミングアウトによる人権獲得の試みにより、異性愛主義的な社会からの寛容=恩恵を失うことを恐れる立場からの批判である。この社会において、同性愛者はクローゼットに留まっている限りにおいて生存を許されてきた。そう考える者は、アカーの行為を「寛容という恩恵を受けるために必要な慎みの限度を超えている」とみなし、批判した。第二は、アカーのメンバーが公共施設に集まることを「群れる」と表し、「弱さ」の現れとして捉える立場からの批判である。そこではアカーの活動が、欧米の「自立・自律」的な運動とは異なるものと位置づけられ、価値の引き下げが行われる。筆者はこうした批判の根底に、男性ジェンダーからの逸脱を恐れる、男性中心主義的で女性嫌悪的な価値観を見出すとともに、それがゲイ男性とレズビアン女性の間に存在する非対称性の一因であることも指摘する。
その上で筆者は、府中青年の家裁判への評価をめぐりゲイ男性の間で見られた対立を、マイノリティの問題として捉えるのではなく、彼ら/彼女らを不利な立場に置いているマジョリティ側の問題、異性愛主義的な社会の問題として捉える必要があると主張する。
解説のポイント:
● 府中青年の家裁判
「府中青年の家」裁判(諏訪ノ森法律事務所)
「性的指向」が初めて判決文に刻まれた府中青年の家事件を振り返る【SHIPにじいろキャビン10周年記念シンポジウム】(WEZZY、2017年12月29日)
府中青年の家事件(arsvi)
藤谷 祐太「トラブルを起こす/トラブルになる――1990年「府中青年の家同性愛者差別事件」と1991年から1997年の「府中青年の家裁判」を事例として」『コア・エシックス』Vol.4、2008年、pp. 319-332
● 「カミングアウトすることで自らの性を可視化し、安全なものにする」
→ 「クローゼットが安全な場ではない」と考える時、それが何を意味するのかを理解する必要がある。クローゼットは、他者の攻撃(偏見や差別、暴力)から身を守ってくれるものであるという意味で「安全」を提供してくれる側面もあるが、同時に、自己否定や周囲の人との関係構築における不安定さを伴う可能性があるという意味で、「危険」な側面をもっていると考えられる。 後者の側面を強く経験している人にとっては、クローゼットこそが自らの生と性を危険にさらすものとして捉えられるため、そこから出ること(カミングアウトし、可視的な存在になること)が、(別の危険と引き換えに、という側面があったとしても)「安全」を求めることになるのではないか。
● p. 74にあるレズビアンとゲイの違いの3点目「プライバシーに対する攻撃がないかのように見える」
→ 原典をあたると、掛札は次のように記している。「一見、プライバシーに対する攻撃がないかのように見えるのである。だからといって、レズビアンがなんの問題もなく、自由に自分たちの関係を生きているわけではない。差別そのものは見えなくても、差別の影響ははっきりあらわれている。(中略)見えない差別は確実にレズビアン自身をむしばむ。プライバシーに対する攻撃は確かに存在する」(pp. 102)。つまり、形態は異なるが、レズビアンも「プライバシーに対する攻撃」を経験している、と主張している。
● p. 76「(母)親業を担う者との密接なつながりの中で、自己を形成していく過程を否認することによって成り立っている」
→ 筆者の説明不足、もしくは論理がきちんと練られていない箇所ではないか。岡野の主張は、依存は人の生の条件である(たとえば、私たちはみな、少なくとも生まれてからしばらくは、母親などに依存せざるを得ないなど)にもかかわらず、近代以降の市民社会では、それを否定することで、「自立・自律」した個人というフィクションを成り立たせてきた、というものである。これを受け、筆者はここで、「自立・自律」を主張し依存を批判する自己(おすぎに体現されるゲイ男性の自己)も他者に依存することで形成されてきたものであるにもかかわらず、その過程そのものを忘却し、依存を他者化している、と指摘しているのではないか。
●筆者はおすぎをクローゼット肯定派として紹介しているが、本人がゲイであることをカミングアウトして活動していることをふまえると、クローゼットにとどまっていると言えないのではないか?
→ 異性愛が前提とされる空間(芸能界)において、異性愛者が想像する、あるいは異性愛者が求めるゲイのイメージ(たとえば「オネエタレント」として等)に忠実であることも、寛容という恩恵に対する慎みの態度といえるのではないか?
ディスカッション・ポイント:
● 筆者は、クローゼットを「『同性愛を隠して引きこもる』ことを余儀なくする社会状況と切り離せない」(p. 54)と主張しています。ここで言われる「社会状況」とは、具体的にどのようなものを指しているとあなたは理解しましたか。具体的な事例を引きながら、答えてください。
● 「波風を立てるべきではない」「対立するのではなく、多くの人の理解・賛同を得られるような方法を選ぶべき」という批判は、その他の運動(フェミニズム運動や障害者運動など)にも向けられるものです。こうした批判について、あなたはどのような意見を持っていますか(たとえば「賛成する」「賛成とまではいかないが、共感する」「反対する」など)。その理由とあわせて教えてください。
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