国際人権法が善意の「保護」や「脆弱性」の言説を通じて、本来救済すべき権利保持者の主体性を奪いパターナリズム(干渉主義)を内包させている現状を批判的に分析し、当事者の声を反映した真の「解放」へと人権制度を再構築するための課題を整理
論文の内容
ルーカス・リキシンクス(Lucas Lixinski)とノアム・ペレグ(Noam Peleg)は、国際人権法がシステム全体のレベルにおいて、本来恩恵を受けるべき権利保持者の主体性を損なうパターナリズム的効果を生み出していると指摘する(p. 1)。著者らは、国連の4つの主要な人権条約機関(自由権規約委員会、女子差別撤廃委員会、子どもの権利委員会、障害者権利委員会)が過去10年間に発表した一般的意見や一般的勧告を分析し(pp. 4, 11)、制度的設計や規範解釈のプロセスにおいて、権利保持者自身が自らの利益や人権の意味について意見を述べる機会から排除されている現状を明らかにする(pp. 4, 13)。国際人権法機関は、権利保持者の声を代表するだけでなく、彼らの意思を代行、あるいは無視して国家と交渉を行っており、これは相手の意思を自らの意思に置き換えるパターナリズムの定義そのものだと批判する(p. 2)。
論文の前半ではパターナリズムの定義が整理され、介入の範囲に関する「広義/狭義」(p. 5)、対象者の能力評価に関する「ソフト/ハード」(pp. 5-6)、回避すべき危害や強制力に関する「強力/弱い」という区分が提示される(p. 6)。特に、意思決定能力が不十分とされる者を保護する「ソフト・パターナリズム」と、自律的な大人の決定をも覆す「ハード・パターナリズム」の区別は重要だ(p. 6)。また、著者らは、国際人権法の実務においてパターナリズムを正当化するゲートウェイとして「脆弱性(vulnerability)」という概念が多用されている点に警鐘を鳴らす(p. 9)。人権の文脈で「脆弱な人々」を救済しようとする意図は、時に彼らの主体性(エージェンシー)を「単なる被害者性(victimhood)」へと縮小させ、条約機関や国家という「救済者」が彼らに代わって意思決定を行う余地を作り出し、彼らを無力な存在として固定化する結果を招きかねない(pp. 9, 23, 25)。
また、国際人権法の構造が「国家と条約機関の二者間コミュニケーション」に依存していることもパターナリズムを助長すると指摘する(pp. 15-16)。条約機関は国家に対して人権侵害の防止や法整備を命じる際、権利保持者の直接的な関与や意見を必ずしも必須とせず、トップダウンで一方向的な是正措置を求めがちだ(pp. 16-17)。脆弱性への対応として提示される「平等の推進」という目標も、個々の権利保持者の多様なニーズや異なる意思を捨象し、結果として個人の自律性を犠牲にする画一的な解決策に陥りがちだ(pp. 18, 27-28)。
一方で、子どもの権利委員会や障害者権利委員会は、この構造的なパターナリズムに自覚的に対抗しようとしている(pp. 21, 33)。前者は、子どもを単なる「保護の対象」ではなく「権利の主体」として位置づけ、子ども自身の意見を直接聴取する「子どもの権利アプローチ」を提唱する(pp. 33-34)。後者は、従来の代理意思決定から脱却し、本人の意思と選好を尊重しながら意思決定を支援する「意思決定支援(supported decision-making)」の枠組みを強く推進しており、国際人権法のあり方を権利保持者中心へと転換する最前線に立っている(pp. 21-22)。さらに、障害者権利委員会が提示する「インクルーシブな平等」モデルは、参加や違いの受け入れを尊厳の観点から位置づけることで、パターナリズム的な平等観からの脱却を図ろうとしている(p. 36)。
最後に著者らは、このパターナリズムの功罪を究明するため、社会権など他の人権条約機関への調査拡大や、ジェンダー・ポストコロニアル理論などの批判的視点を取り入れた広範な研究アジェンダを提示する(p. 39)。また、国内人権機関の活動(p. 42)や国際刑事法・国際難民法などの隣接分野との比較研究の必要性も訴える(p. 41)。国際人権法がその本来の目的である「権利保持者の解放(emancipation)」を達成するためには、条約機関自身が自らのパターナリズム的な傾向(救済者コンプレックス)を深く内省し、当事者の声を真に制度と規範の構築プロセスに反映させる改革が不可欠だと述べる(pp. 42-43)。
批判的検討
確かに障害者権利委員会(CRPD)は、人権条約機関の中でパターナリズムに最も自覚的に対抗し、代理意思決定を否定して「意思決定支援」を推進する最前線に立っている (pp. 21, 35)。また、「障害」という一側面だけで人間を捉えるのではなく、障害にジェンダーや年齢(高齢や子ども)、人種などが重なり合うことで生じる「複合的で交差的な差別」を精緻に分析している。例えば、障害を持つ女性や障害を持つ高齢者が、社会的にどのような偏見(ステレオタイプ)に晒され、三重・四重の排除を経験しているかをドキュメント化し、構造的な不平等を告発する能力において、CRPDは極めて優れた役割を果たしている。
他方で、「重度の障害や複合的な不平等を抱える個々の当事者が、日々の生活で実際に自らの意思で人生を決定(自律)できるようにするために、具体的にどのような実践的・法的なロードマップを構築すべきか」という、前進的な解決策の提示においてCRPDは踏み込み不足だ。著者らも、個人の「自律性(autonomy)」を保護・強化するための明確なマンデートを十分に確立するまでには至っていないと指摘している(p. 29)。
自律を具体的に保障する道筋が示されいないため、CRPDの議論は「障害を持つ女性や高齢者は、極めて脆弱で、複合的な不平等の被害者(victimhood)だ」という事実の強調に終始してしまっている。つまり、「脆弱性(vulnerability)」言説の罠に逆戻りしている。著者らも、この「脆弱な被害者だから、周囲が手厚く保護しなければならない」というロジック(脆弱性言説)こそが、皮肉にも「本人の意思を脇に置き、国や支援者が『良かれと思って』代わりに決定を下す」というパターナリズム(代理意思決定など)を正当化する入り口(ゲートウェイ)になっていると指摘している。
CRPDが従来の「慈善や医療モデル」から「人権モデル」へのパラダイムシフトを牽引している (pp. 31, 35)点は評価されるとしても、「当事者の主体的関与」を完全に制度化できていないこと、また、条約解釈の過程に潜む脆弱性へのアプローチによって、知らず知らずのうちにパターナリズムの罠を再生してしまっている点には批判的な目線を向けなければならない。