清田隆之『さよなら、俺たち』(2020年)

概要

 著者は、恋バナ収集ユニット「桃山商事」の代表。「桃山商事」とは、筆者が大学生の頃、「恋愛で苦しむ女子の口に耳を傾けて、みんなで盛り上げよう」というコンセプトで始まり、方法を変えながら、現在も継続している活動のこと。この活動を通して、著者はジェンダーの問題、男性性の問題について考えるようになったという。

“あるあるネタ”と言ってしまえばそれまでだが、すべて異なる男性たちの話であるはずなのに、同一人物かと疑いたくなるくらい同じようなことをしている。判で押したような言動が量産されている背景には、間違いなくジェンダーの影響がある。

「さよなら、俺たち」

こういう話に接すると、何か鏡を突きつけられているような気分になり、毎回ゾッとする。「完全に俺じゃん…」と背筋が凍る。しかし、それらはまぎれもない現実であり、なかったことにはできない。そういう「見たくない自分」も含めて自分自身について研究していくことの意義こそ、私が桃山商事の活動を通じて得た最大の学びだ。 

さよなら、俺たち

私はこの活動を続ける中で、モノの考え方や世界の見え方(とりわけ恋愛観やジェンダー観)が劇的に変化したような感覚がある。

1 あの人がいない人生を生きるのだ−−失恋による小さな死

 「桃山商事」の活動を通して著者が積み重ねてきた気づきと学びは、男性性の特徴(問題点)について語るときの著者の豊富な語彙にも反映されている。「チキンレース的なコミュニケーション」「女性をナチュラルに“モノ扱い”する感性、「弱音を吐けない」「人の話を聞かない」「女子を外見でしか判断できない」「女性の内面に対する解像度の低さ」「女性を説明する語彙の乏しさ」「得意げな説明、独善的な解説、上から目線のアドバイス」「“被害者しぐさ”」などなど。

 筆者にとって、男性であるというだけで与えられている特権的な位置は、居心地の悪い位置でもある。それは、夫婦別姓で結婚している事実が語られている箇所や、女性が料理やケア役割を当たり前のように担っている「正月の家族団らん」の場で違和感を覚えたエピソード(「なぜ、男たちはそのアンバランスな状況の中でくつろげてしまえるのだろうか」)などから読み取ることができる。なぜか。その答えは、以下の引用の中で部分的に明らかにされているだろう。

特権と言うと物々しく感じるが、それは例えば「考えなくても済む」とか「やらなくても許される」とか「そういうふうになっている」とか、意識や判断が介在するもっと手前のところの、環境や習慣、常識やシステムといったものに溶け込むかたちで偏在しており、その存在に気づくことなく享受できてしまう恐ろしいものだ。(中略)考えなくて済むということは知らずに済んでしまうということだ。しかしそれは、言い換えれば「無知」ということでもある。はたして俺たちは無知のままでいいのだろうか。

4 生理が自己責任になってしまうディストピア−−強固な男性優位の社会構造

 自らの特権性に居心地の悪さを感じることは、苦しい経験ともありうる。著者も「ジェンダーの問題に意識的な男性ほど『男性性に付随する加害者性』に悩」む傾向を指摘するが、そうした「悩みや苦しみをどう考えればいいのかに関して、私はまだ明確な答えを持ち合わせていない」とも述べる。とても正直で好感が持てるが、著者の見出す答えが、従来の男性学に典型的に見られた「男性だってつらいんだ」に安易に流れていくことなく、それとは別の回路をひらいていくものであることを期待したい。

目次

さよなら、俺たち

1 あの人がいない人生を生きるのだ−−失恋による小さな死

2 俺たちは全然客観的で中立的なんかじゃない−−男の幼稚さ

3 私たちはすれ違ってすらいないのかもしれない−−コミュニケーションと聞く力

4 生理が自己責任になってしまうディストピア−−強固な男性優位の社会構造

5 加害者性に苦しむ男たち−−抑圧と孤独

6 生まれたからにはまだ死ねない−−beingから「私」へ

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